日日古本屋

岐阜の古書店・徒然舎店主の日乗です

3月11日(水)

昨日の市場は2回目の、そして最後の、鯨書房さん追悼の市となった。

こんな時世になってしまい、果たして古本屋たちが市場に足を運んでくれるのかがとても心配だったが杞憂に終わり、買われるべき人のもとへ、多くの本が旅立っていった。

先代・鯨さんと2代目・Yくんが大切に棚に並べてきたそれらの本は、これから、読まれるべき人のもとへと手渡されてゆくことになる。本にとっても、ふたりにとっても、それが一番、よい道なのだと思う。

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今週末に、年に一度の大市を控えた名古屋古書会館は、しかし、殺伐とした空気を纏っていた。

世を覆う不安は、例外なく古本屋たちの神経も過敏にしていて、普段以上にそれぞれの個性がむき出しになっていた。

大声で悲観的な恐怖を喚いてしまうのも、責任ある決断を他人に迫ってしまうのも、すべてを憎い誰かしらのせいにしようとするのも、未曾有の不安の中にある今、仕方ないのかもしれない。

誰もが自分の心の平安を得るために必死だ。それは人間として当たり前の行動であり、もちろんわたし自身だって。

けれど、社会に生きる存在として、できるだけ冷静に、理性的に、柔軟に、そして温かい包容力をもって行動していきたいと思う。

いくらでも不安にはなれる。けれど、安易な負の感情の連鎖は断ち切りたい。ヒステリックは誰も幸せにしない。

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市場を出て、まちを歩きながら、いろいろなことを考えていた。

マスクをしている人、していない人、外国の人、子どもたち。すれ違う人をぼんやり眺めながら、皆どんな思いで日々を過ごしているのだろう、と思った。様々な人たちのそれぞれの生活に思いを巡らせながら、歩いていた。

気づいたら、東片端にある正文館書店本店まで来ていた。特に目当てがあったわけではなかったけれど、何気なく、ドアを開けていた。

いらっしゃいませ、の声とともに、本の匂いに包まれたとき。大人も子どもも何人もが、本を手に棚に向かっている、その姿を目にしたとき。そのとき、自分のなかから、思ってもみなかった大きな安堵感が湧いてきたのを感じた。

大なり小なり、共通の不安を抱えた人たちが、それぞれに、娯楽を、安らぎを、知識を、本に求めている姿は、大げさでなく、暗闇にひとつの灯りを見つけたような気持ちだった。

いくつかの本を手にレジに並ぶと、小学生の女の子が漢字ドリルと小さな本をお父さんに買ってもらって喜んでいた。ドリルも、買ってもらった時って嬉しいよね。

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今の気持ちは、9年前の3月11日から始まった世界で苦しんだ気持ちと近いものがある。

人の心が荒み、思いが分断され、思慮や理知ではなく衝動的な感情の波に飲まれていく姿を見ているのが本当につらい。

自分にできることは何か。もがきながら、あの頃は、みっともない様で店のドアを開けることしかできなかった。9年経った今は、あの頃よりもう少し、やるべきことが見える気がする。

わたしと同じような思いで暮らす人に、あるいは、つらい現実からほんの少しの間だけでも逃れて心を休めたい人に、そして、苦難を乗り越えてきた過去の人々の経験や知識を学んで今を生きる術としようとする人に、頼ってもらえる場所になれるよう精進していくことこそが、わたしの心の平安への道。

 

(古本屋という仕事について思いを巡らした日に書くので、いつもこんな落ちになってしまう…もっと楽しくてお気楽なことも書いていきたい…)