日日古本屋

岐阜の古書店・徒然舎店主の日乗です

2月11日(火) 弔いのかたち

古本屋が亡くなったとき、少なくはない本が、その手元に遺される。

生前、その人が売れると見込んで買い取り、あるいは市場で仕入れ、値段をつけて店の棚に差したり、即売会に並べたり、インターネット通販に登録した本と、そこまで作業が至らなかった本だ。往々にして、後者は膨大な量になる。

その本の山を前に途方に暮れる家族のために、生前親しかった古本屋が中心となって、大量の本を運び、市場に出品するのが、この業界の慣しになっている。

 

高齢化が進む古本屋業界、年に何回かは「あの古本屋さんの倉庫から」という出品が並ぶ市場がある。

そんな日の市場は、普段とはどこか違う雰囲気がある。

個人的に仲が良かったわけでなくても、その古本屋さんがどんな本を扱い、得意とし、どんな商売をしていたかを、市場の仲間はみんな知っている。そのうえで、その在庫を一目見ようと、いつも以上に人が集まってくる。

その本たちを前に、思い出話も始まる。あの人こんなものを持っていたんだな、この本のことは話に聞いたことがあるぞ、これはうちが売ったものだな、等々、あちこちから、聞こえてくる。

入札は盛り上がり、心なしか札の値段も高い。時間の制約もある中での作業になるため、必ずしも丁寧に出品されていなくても、「引き」になり売れ残ってしまうものも少ない。

本の売上は、自分の仕事返上で働いた古本屋たちが少しの手間賃をいただいて、すべて遺族にお渡しする。

 

そんな日の市場に満ちている空気が、わたしはとても好きだ。

誰もあからさまに泣いたり悲しがったりはしない。ここぞとばかりに悪態をついたり、変な思い出話をして笑っている古本屋もいる。

けれど、市場にいる古本屋全員が、その人の遺した本の山を前に、その人の不在を強く感じていて、本を眺めながら少しずつその事実を受け止めていっているのを感じる。

古本屋という人種には、ちょっと臍曲がりで口が悪くて厄介、というキャラクターの人も多い。でも、それもまた、感受性が強かったり、脆かったりする姿の裏返し、強がりなんじゃないかと思ったりする。(自分もそんな一人だからこそ思う)

寂しさを紛らわすために冗談を言いながら、いつもより気持ち高めの札をたくさん入れる。それぞれの思いは特に語ることなく、買えた本を持ち帰り、値段をつけて自分の店で売る。

そんな、ぶっきらぼうな弔いのかたちを見ていると、古本屋らしくていいなあ、と、余計にこみ上げてくるものがあった。

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