日日古本屋

岐阜の古書店・徒然舎店主の日乗です

2月11日(木) 本が「生きている」棚

朝、テレビ番組の様子がおかしいので気づいた太閤堂に言われるまで、今日が祝日だということをすっかり失念していた。町の遠くに音楽が聞こえる。そうか、紀元節。(古本屋になって戦前戦中の本を自然に手に取るようになってから、そんな言葉も非日常でなくなった)

木曜は定休日明け。いつものように事務と通販の発送を優先して、と思っていたら、開店と同時に次々とご来店があり、わちゃわちゃしてしまう。買取の持ち込みやご相談も続く。休日で、かつ春が近づいてきているのを感じる。

17時閉店を19時閉店に戻したものの、遅めの時間にはほぼご来店はない。それでもきっと春になれば、と信じ、店番スタッフに値札をどんどん貼ってもらう。

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川島さんはずっと行列。今週末はバレンタインだもんな

 

先日、「こぢんまりとした店。ちょっと寄るにはいい感じ」というクチコミがあったことが地味にきいていて、時々思い出しては小さく傷つく。面積も広くなく、天井までびっしり本で埋まっているわけでもなく、ちょっと立ち寄った印象としては、本の量も少なくて見どころのない店と思われてしまうのだろう。店の小ささ、棚の少なさは、開店以来ずっと、コンプレックスに近い感情として心に引っ掛かっているのは事実で。それを、本の回転、入れ替えで補っているつもりだけれど、定期的に通えるお客様でない限り、そうした楽しみ方はしていただけないだろうことも解ってはいる。

ただ、ぎっしりと本で埋め尽くされた、いわゆる「古本屋らしい」棚、「映える」棚を作りたいとは思わないのも正直な気持ち。棚の隅々まで手と意識が行き渡っていて、店にあるすべての本が「生きて」いて、つい手に取ってしまいたくなるような棚が、わたしにとっての理想だからだ。

より高価な本を、より珍しい本を、という志向も、わたしには無い。「ふつうの本」でも、読まれるべき本はたくさんあるし、読みたいと思われている本もたくさんある。本と、その本を求める読者をいかに出会わせるか、読みたいと思っている人の目にいかに留めてもらうか。そのために本を選び、その目を意識して棚に並べてゆくことに、わたしは一番関心があるのかもしれない。

数年間忘れ去られたまま背が焼け埃がシミになってしまった、という本を、店の中で作ってしまいたくないと思うと、今の店の広さ、棚の量が限界くらいかな、と思う。最近は、本を棚に加えていくスピードより、お客様の手に渡ってゆくスピードのほうが早く、とてもありがたく思う一方、もっとがんばらないと、という焦りもある。

わたしは毎日棚を見て、倉庫の本を思い出して、新たに買い取ったり市場で買った本も見ながら、次に並べる本を選んで、値段をつける。その本を棚に差しながら、しばらく売れていない本を抜いたり、時には全体を並べ直す。少し手を入れると、ずっと売れていなかった本が急に売れていくのは、よくあること。眠っていた本が目を覚まして生き生きと光りだし、お客様の目に留まったのだなあと嬉しくなる。

そんな小さな物語が日々起きる「生きた」棚を、明日もせっせと作ろうと思う。そんな毎日を、10年続けてきた。